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新婚野郎のカムバック禁欲録

新婚のアラサー男が、かつて取り組んでいたオナ禁に『再挑戦』しながら、収入アップに取り組んでいくブログです。

昨日は荒れていた

 

ここしばらく、ストレスについて研究していました。

その結果、僕はストレスに強くなるはずでした。

しかし、「自分はなぜストレスに弱いのか?」を知れば知るほど、僕は、さらにストレスに弱くなっていきました。

 

この方法は間違っている。何か根本的におかしい。

どうしたものかと迷っていたところ、以下の一節を読みました。

私が病になりたてには、ちっとも神経が昂ぶらなかったのに、医学を研究してから、よりいっそう、弱くなったのである。つまり、知らなくてもいいことを知ってしまうからだ。

中村天風『運命を拓く 天風瞑想録』P.182

 

「ああ、やはりそうなのだな」と思うと同時に、突然悟りのように、以下のような考えが頭の中で構築されました。

  • 「ストレスに打ち勝つために第一に必要なのは、知識や方法ではなく、心の強さである」
  • 「心の強さとは、強くある、と内的に決意した状態である」
  • 「外的なメソッドは、心の強さを増幅することはできても、ゼロから生み出すことはない」

 

「悟り」の勢いのまま筆を走らせた結果、昨日は記事がたくさん出来上がりました。

自分を鼓舞するためでもあったので、言葉が随分荒っぽくなりましたが。

 

 

確かに、環境や習慣は「心の強さ」を変動させるでしょう。

しかし、現代日本に住む僕たちは、例えば「アウシュビッツ収容所」よりは明らかに恵まれた環境にいるはずです。

そんな中にあっても心の強さを失わなかった人物を、僕たちは知っています。

 

そんなに極端な例でなくても、過去の日本人より僕たちの生活は恵まれています。客観的に見れば、どう考えてもストレスは少ない。

にもかかわらず、第二次世界大戦当時、『きけわだつみのこえ』を書き残した特攻隊員の若者たちより、どう考えても僕の方が心が弱い。

現代人は人間関係で感情疲労している、などという説もありますが、これも疑わしい。

今『源氏物語』を読んでいますが、昔の人は昔の人なりに、人間関係で悩んでいたことに気がつきます。その悩みは、現代の僕たちが抱えているものとそれほど変わりがない。

 

客観的に見て、僕たちは過去の日本人よりも圧倒的に「心を強くしやすい」環境や習慣に囲まれているはず。

にもかかわらず心が弱いのだとしたら、それは、過去の彼らが持ち、今の僕らが持っていないものに原因がある。

「精神論・根性論」です。

少なくとも、今の僕にとっては、この古臭い信念が必要なようです。

 

その観点からこれまでの自分を振り返ってみると、外的な「習慣化」を重んじるあまり、自分の心の中の内的な「決意」と言うものに、さほど目を向けてこなかったことに気づきます。

しかし、本当に必要なのはこれだった。

強くある、という内的な決意。

 

もちろん、決意だけでは実現不可能な理想論に終始してしまう可能性が高い。だから、「習慣化」のような正しいメソッドは必要である。

それでも、全ての核となるのは、内心の決意。 

 

このように書いてみると、実に当たり前のことかもしれません。

でも、長いこと忘れていたのです。

二度と手放すまい。

 

「強さ」のために

このブログの主眼は、

 

  • オナ禁によって、バイタリティを高める。
  • 高めたバイタリティで、収入アップに取り組む。
  • 金銭の不安をなくすことによって、家庭円満を保つ。

 

 

そうじゃない、そうじゃなかったんだ。

大切なのは金じゃない。夫婦のコミュニケーションでさえない。

本当の意味で家庭を守るために、本当に大切なことは、「心の強さ」だった。

何があっても絶対に折れず、家族を守り抜くという決意と、それに裏打ちされた現実的な行動、具体的な強い態度。

これがなければいけなかった。

僕は順序を間違えていた。

 

 

実は、僕の結婚は、親に反対されています。

結婚式は無事に行えると思いますが、親からはいつまでも文句を言われることになるでしょう。

僕はこれまで「親を大切にしなければならない」という社会通念を理由にして、親の言うことを基本的には聞いてきました。

けれど、今回は言うことを聞けません。僕が人生を共に過ごしたい相手は、ただ一人しかいないからです。

 

親と闘わなければいけない。

親からの圧力の前に混乱して、嫁の前で泣いている場合じゃない。「男は泣くな」なんて古い、とかリベラルぶってる場合じゃない。「〜ねばならない」という信念はストレスになる、とか頭でっかちなことを言ってる場合じゃない。

お前は強くあらねばならない。

 

「心を強くする習慣」とか、「レジリエンス」とか、そんな悠長なことを言っている時期は終わった。

直ちに、今この時に「強くある」と決意し、その通りに強くあること。

ただ、これだけだ。

自由意志の存在を証明し続けるために

 

人間を、人間たらしめているものは何だろう。

「自由意志」だ。これのない存在は、プログラム通りに動くロボットと本質的には変わりがない。

 

僕はお前に、「強くあれ」と言う。

お前は、「強くあるなんてできない。心で心を変えることなんてできない。無理なものは無理なのだ」と言う。

それは違う。

確かに、すぐには変われないかもしれない。たった3秒で弱い自分に戻るかもしれない。

それならば、3秒ごとに決意し続けろ。

何度折れても、決意し直すことをやめない限り、お前は強くあることができる。

 

人を人たらしめる「心の強さ」さえ、外的なもの、すなわち「肉体」や「環境」あるいは「過去」や「記憶」に完全に規定されてしまうと言うのなら、

もはやお前に自由意志などありはしない。

自由意志のないお前は人間ではなく、代替可能なただのロボットだ。せいぜい社会の単なる一部品として、死ぬまで労働して果てるがいい。

そうではないというのなら、自由意志の存在を証明するしかない。

「強くある」と決意し続け、強い自分であり続けることだ。

その結果、発狂して死に至ったとしても、お前は「人間として生き切った」のだ。ロボットのような人生をぼんやり長生きするより、どれほど尊いことか。

お前が求める「バイタリティ」とは、そういうものではないのか。

 

信念は肉体に影響を及ぼす

(約900字)

 

試してもらいたい実験がある。簡単にできるので、今すぐやってみてほしい。

 

手で壁を押してみてほしい。

壁じゃなく机や椅子でも、対象は何でもいい。右手でも左手でも構わない。とにかく何かを力強く押してみる。

そのとき、頭の中で、

「1+1は2!」

と強く思い浮かべる。

そして、押したときの体の感覚、特に体幹部の感覚をよく覚えておく。

 

次に、また同じように手で壁を(あるいは別の何かを)押すのだが、

今度は、

「1+1は3!」

と強く思い浮かべてほしい。

そして、壁を押したときの体の感覚を確かめてみる。

力が入りにくいはずだ。

具体的には、腹の下の方から力が抜けていく感覚があると思う。

日本人は、その場所を「肚(ハラ)」と呼んできた。「肚が座る」とは、その場所に力がこもっている状態のことを言う。

 

なぜ、頭に思い浮かべる内容を変えるだけで、こうまで力の入り方が違うのか。

「1+1は3!」という命題が「誤り」だとわかっているからだ。

信念は、物理的な肉体に直接影響を与える。

正しいと信じる思考を浮かべるだけで、人は強くなる。逆に、信じていない内容を思い浮かべているだけで、人は弱くなる。

このことは、空想の理論でもなんでもなく、厳然たる現実だ。

 

科学的な根拠がなければ信じられないというなら、以下のリンクを参照されたい。

www.ted.com

 この動画の要点は1つ。

「ストレスが体に悪いという信念が、体に害を及ぼしていることがわかった」

ということである。

従来、ストレスは無条件に体に害をなすものと信じられてきた。

実際には、ストレスに対するネガティヴな「信念」のありようが、有害な反応を体に作り出していたことが判明した。

これが現時点での「科学の結論」だ。

 

 

信念は肉体に影響を及ぼす。

だから、自己との対話を尽くし、自分自身の信念を発掘しなければならない。

何を大切にし、何を捨てて生きるのか。

「肉体」という物理的制約、「死」という時間的制約を課された存在である以上、僕たちは、望むすべてを手に入れることはできない。

 

僕たちの目の前には、数多の選択肢がある。

迷いを断ち、行動を始めるために、指針となる信念が必要だ。

その信念に基づいてこそ、僕たちは強くあることができる。

 

「意志力有限論」への警鐘を鳴らす

(約800字)

 

「意志力は有限である。ゆえに、大切に使わなければならない」

こんな説を最近目にする。事実なのだろう。体感としてもわかる。

 

しかし、これを過剰に重視すると、どうなるか。

「意志力は有限である」という命題を「自分は貧弱な意志力しか持っていない」という信念に曲解して、受け入れてしまう。

すると、その弱い信念を理由にして、

「ああ、今日はこんなに意志力を使っちゃった。もう意志力は発揮できないから、欲に流されても仕方ないよね……」

とならないだろうか。

 

これでは、せっかくの「意志力」研究が無駄になるどころか、逆効果になっている。

知識ばかり集めて、実践に役に立てられない、むしろ逆方向に向かってしまう。こういうのを「頭デッカチ」と言う。

 

確かに、これまで漠然としていた「意志力」を数値化し、意識的にコントロールしようとする取り組みは、有用と思う。

だが、この知見を、個人が安易な気持ちで活用しようとすると、うまくいかない。

いとも簡単に、欲望に負ける際の「言い訳製造機」と化してしまう。

人は、誰も見ていなければ、簡単に自分を欺ける。

「逃げ」の正当化ストーリーを思いつくことにかけては、人間の頭脳は天才的な働きを見せる。

 

 

知識を求める前に、やるべきことがある。

気持ちを強く持て。

「どうすれば」などと聞くな。ただ、強くあればいい。

強くあることに方法もクソもない。ただ決意するだけだ。真に心を強くするには、究極的にはそれしかない。

決意が長持ちしないなら、そのたびに決意し直せばいい。

自由意志の存在を信じているならば、ただ一心に全存在を賭けて決意し続けろ。それが変革のアルファにしてオメガとなる。

 

食事や運動で意志力を増す方法もある。実際に効果的だと思う。

しかし、それらの効果的な方法も、「自分は心を強く持つ」という決意に支えられなければ意味がない。

 

メソッドはあくまで支援役であり、自己改善の主役は徹頭徹尾「自分自身の心」だ。

このことを見失ってはいけない。

すべては「強くある」という決意から始まる。

 

「メソッド主義」は主体性を失わせ人を弱くする

(約1,000字)

 

精神論を否定するブームは去りつつあるように見える。

それは、精神論を見直す流れが強まったということではなく、むしろ「精神論を否定すること当然とする風潮」にまで、ブームが極まったということだ。

 

精神論を打ち倒したのは、「習慣」「手法」「規律」などといった、客観性や外形的なものに焦点をあてる考え方だ。

ここでは、これらをひとまず「メソッド主義」と呼ぶこととしたい。

 

メソッド主義は、多くの場合、精神論を凌駕するパフォーマンスを発揮する。理性的な思考や、統計による検証によって裏付けられているのだから、当然だ。

生産管理の場面では、精神論でゴリゴリと無理に働かせるより、適度な休憩を設けた方がいい。

また、筋トレやスポーツの練習でも、効率的な上達法が開発されてきている。

そのことは、別にいい。好ましいことだ。

 

 

しかし、メソッドにのみ注意を向け続けると、どうなるか。

「人は、心の強さで自分自身をコントロールできる」という信念が消失する。

彼の目標達成プロセスにとって、彼自身の心は必要なくなる。

心のない人間はロボットだ。ロボットなら、代わりはいくらでもいる。

彼が、彼自身である必要がなくなる。

だから、メソッドのみを追求すると、概念的に自殺することになる。

 

君が、ある習慣を作ることで達成したい目標は、君が享受したい、君だけの目標であって、

君は「抽象的な数値目標」を達成するためのロボットになりたいわけではなかったはずなんだ。

自分を低く見積もり、「心の強さは習慣には敵わない」という弱い信念を受け入れ、メソッドの構築と維持にのみ専心するのであれば、

そして、それによって自己を打ち捨ててしまうのであれば、

君がそんなにも苦労して君の習慣を作り上げた理由が、一体どこにあるというのか。

 

 

習慣さえ作ってしまえば、あとはお気楽極楽、ゴールまでのんびり、という考え方でいると、無意識のうちに、人間の心が持つ「主体性」という強さを放棄することになる。

オナ禁してるのに、人生がうまくいかない……」と思っているなら、その人は、「オナ禁」というメソッドに自己を明け渡してしまい、心の強さをすでに無くしている。

 

真に重要なのは習慣自体ではない。

その習慣を作るに至った意志があってこそ、習慣は活きる。

だから、形骸化した習慣など捨ててしまえ。そして、またあらたに作り直せ。

 

禁欲生活の続け方、「内罰と他罰」「能動と受動」について

(約1,900字)

 

禁欲に取り組むのは、何かしら耐えがたい「苦しみ」があるからでしょう。

 

苦しみに、意味などないかもしれませんが、原因はあるはずです。

では、その原因をどこに見るか。

 

  • 内罰的な人は、「弱い自分が悪い」と思うでしょう。
  • 他罰的な人は、「自分を苦しめる世界が悪い」と思うでしょう。

 

実際には、どちらか片方のみに原因を求めるのではなく、「自分も世界もある程度は悪い」と解釈するのが一般的であるように見えます。

ここではあくまで、モデル化した例として考えています。

 

 

次です。

苦しみの原因をひとまず特定したなら、次は「この苦しみは取り除けるか?」という問題が浮かびます。 

適切な用語が浮かびませんが、仮に、こう定義します。

  • 能動的:苦しみを取り除ける
  • 受動的:苦しみを取り除けない

 

もっとシンプルに、次のようにも言えます。

  • 能動的:何かを変えられる。
  • 受動的:何も変えられない。

能動的な信念は希望に、受動的な信念は絶望につながります。

 

 

「内罰と他罰」「能動と受動」という、これら2つの信念の軸を、マトリックス的に組み合わせ、次の4類型を導きます。

 

1.内罰的で能動的

苦しみの原因は自分にあるから、自分を変えよう。

2.内罰的で受動的

苦しみの原因は自分にあるが、どうせ変われない。

3.他罰的で能動的

苦しみの原因は世界にあるから、世界を変えよう。

4.他罰的で受動的

苦しみの原因は世界にあるが、どうせ変えられない。

 

これら4つの信念を「希望」と「絶望」という軸で評価するなら、

希望>1>3>2>4>絶望

の順序になるでしょう。

他罰より内罰が、受動より能動が、より希望に近い。そして、後者の方が「希望」の観点からは重要である。

 

「他罰より内罰」について補足します。

自分の問題であれば、自分1人を変えれば済みます。一方、世界の問題であれば、変えなければならない対象は複数です。

単純に数の観点から考えても、他罰よりは内罰な解釈の方が問題解決が容易であり、希望に近いと言えます。

 

 

先の4類型を、禁欲に当てはめてみます。

 

1.内罰・能動型の禁欲

最も基本的な禁欲スタイルです。自分に直すべき点があると感じ、それを直します。進んで他人を変えようとはしないかもしれませんが、禁欲的な姿勢を見せることで、間接的に世界をも変えるかもしれません。

オナ禁に取り組む人はこの類型です。

 

2.内罰・受動型の禁欲

自分に原因があるのに、それを変えられないのだから、「自分のダメっぷりをひたすら耐える」という何とも苦しい禁欲の道しか残されていません。それって禁欲でしょうか?

 

3.他罰・能動型の禁欲

この人は、世直し活動家になるでしょう。禁欲的な発想を他人に強いるので鬱陶しいですが、実際に大きく世界を変える可能性もあります。

 

4.他罰・受動型の禁欲

こちらも2番と同じく、ひたすら苦しみを耐え忍ぶのみです。しかも、世界=他人を憎むので、彼らから疎まれ、孤立します。何者にもなれないでしょう。

 

書いてみるとわかるように、どうも禁欲は「受動型」には馴染まないようです。

禁欲の主眼とは、特定の困難を受容することによって、何らかの目的を達成することです。

この発想は、受動的な人間からはそもそも出てきません。

禁欲は、能動的な取り組みなのです。

「自分は、自分の意志で何かを変えうる。そして、その先に望むものを手にできる」

という信念によって支えられて、初めて禁欲は成立します。

「何も変えられない」という信念が根づいた時点で、禁欲は終わります。

 

ですから、禁欲に取り組んでいるのであれば、特に「うまくいかない……」と悩んでいるのであれば、

時々、「自分は、何かを変えられると信じているだろうか?」と自己問答してください。

その際、「変えられると信じるべきだ、そうじゃないとかっこよくない」という打算の声は無視して、自己の本心を聞くのです。

 

その結果、「変えられないと信じている……」と結論したなら、一度、禁欲は休んだ方がよいと思います。

「できない」と思っていることを続けるのは、つらいことです。

つらさに耐えかねて、「もう禁欲なんて二度とごめんだ!」と完全に拒絶してしまうかもしれません。それは、もったいないことです。

 

むしろ、ひとまず禁欲はお休みして、思うままに欲望を楽しみ、いつか「やはり変えられるかもしれない」と信じられたとき、また禁欲を再開すればいいと思います。

それくらいのゆるい気持ちでも、立ち止まりながらでも、とにかく続けることで、最終的には望むものを手にできるはずです。