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新婚野郎のカムバック禁欲録

新婚のアラサー男が、かつて取り組んでいたオナ禁に『再挑戦』しながら、収入アップに取り組んでいくブログです。

セネカの続き

古代ローマ 禁欲主義哲学 読書

(約3,000字)

 

昨日に続き、古代ローマの禁欲主義哲学者・セネカの『生の短さについて』を読んでいきます。

前回の記事はこちら

古代ローマの禁欲主義・セネカ - 新婚野郎のカムバック禁欲録 

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

 

第4〜6章「偉大な人物たちも時間のなさを嘆いていた」

第4章から6章は似た内容が続くので、はしょってまとめます。

誰よりも勢力があり、高い地位に就いた人たちが、閑暇を望み、閑暇を称え、閑暇を自分にあるどの幸にもまさるものとする言葉を漏らすのを目にすることがあるはずだ。(前掲書、18〜19ページ)

この部分でセネカは、初代ローマ皇帝アウグストゥスのような有名人たちを引き合いに出し、「権力者や賢人であった彼らでさえ、自分のために時間を使えていなかった」と述べています。

 

第7章「すべての時間を自分のために使えば、生の短さを嘆かなくなる」

いよいよセネカは、「生を自分のために使える人」について述べていきます。

人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰の生よりも長いのである。(中略)自分の時間と交換してもよいと思う価値のあるものは、彼らには何も見出せなかったのである。(同前、26〜27ページ)

セネカの言う「偉人」は、自由になる時間をすべて自分のために使い、「寸刻たりとも掠め取られるのを許さない」とまで言い切っています。

自分の時間の大切さを説くのはわかりますが、そこまでゴリゴリに自分優先でいいのでしょうか。なんだか腑に落ちない感じが残ります。

ともかく、そのような人物であれば、

時間を残らず自分の用のためだけに使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日であるかのようにして管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。(同前、28ページ)

たとえば自分が明日死ぬとして、僕は「後に残す家族はどうなる?」などと恐れてしまいます。セネカに言わせると、それすら「他人に時間を奪われている」ことになるのでしょうか?

少しもやもやした気持ちのまま、先に進みます。

 

第8章「人々は時間を無価値だと見なし、湯水のごとく使う」

セネカは、人々が「死を思わない」ゆえに時間を浪費している、ということを、具体的な例を挙げてさらに説明しています。

私は、常々、人に時間を貸せと求める者がおり、求められるほうもいとも簡単に貸し与えてやる者がいるのを見て、驚きの念を禁じえない。(中略)まるで求められたものは無であり、与えられたものも無であるかのようにである。時間という何よりも貴重なものを弄んでいるのだ。(同前、29ページ)

『生の短さについて』のような古典を読む醍醐味の1つは、思わず「なんで俺のこと知ってるの??」と言ってしまうような、「時代や場所を超えて、広く人間に当てはまる真理」に触れられることだなぁ、と思います。

この引用部分もそうです。スマホが普及した現代、LINEなどを使って気軽に「いま時間ある?」と聞ける環境の下で、僕は「人の時間を奪っている」ということに無頓着になりがちです。時間を奪われることについても然り。

まして、この文章が書かれた頃は、スマホやLINEなんてありませんでした。その頃から、僕たち人間は「気軽な時間の奪い合い」を繰り返してきたようです。

彼らがそうした考え違いをするのも、時間というものが無形のものであり、目に見えないものであり、そのために、最も安価やなもの、いや、それどころかほとんど無価値なものとさえみなされているからにほかならない。(同前、29〜30ページ)

「モノの価値」は、それを作るために必要な「労働量」で決まる、という考え方があります。

その考え方からすれば、なるほど、時間は無価値です。すべての人に、無償で、常に供給され続けるものですから。

……いえ、違いますね。

「今この時」という時間を作るには、そもそも「生きていなければ」なりません。そして、生きるために、肉体はありとあらゆる「労働」をしています。

心臓は休みなく血を送り続け、腸は栄養を吸収し、脳はホルモンを通じて身体の調整を行う。

肉体のすべての労働は、生存のためにあります。その結果、「今この時」という時間が生み出されていく。そのように考えると、時間の価値は途方も無いものである、と思えてきます。

ちょっと脱線してしまいました。本筋に戻りましょう。

 

第9章「遠い将来について考えることは、欲深い」

このあたり、耳の痛い指摘が続きます。

人は、より善く生きようとして、なおさらせわしなく何かに忙殺される。(同前、31〜32ページ)

さらに、

人は、これを、次にはあれを、と考えをめぐらせ、遠い将来のことにまで思いを馳せる。ところが、この先延ばしこそ生の最大の浪費なのである。(同前、32ページ)

今日はこれをやって、明日はこれを勉強して……と計画することもまた、浪費なのでしょうか。そんなことは思ってもみませんでした。

しかし、セネカの指摘を自分の身に引きつけて振り返ってみると、「未来のことに思いを煩わされて、現在に集中できない」というのはよく経験しています。確かに、それは「真に生きている」とは言えないかもしれません。

セネカは、『生の短さについて』において「今この時を生きる」という「マインドフルネス」の重要性を説こうとしているようにも読めますが、今後の展開はどうなるのでしょう。

君は、なぜ気楽に、また矢のごとく素早く逃げ去る時の流れにあって悠長に、君の欲深さの思いのまま、遠い将来にまで歳月を順送りするのであろう。(同前、33ページ)

「明日はこれを学ぼう。今年はこれを身につけよう」などと、未来の時間の使い道をあれこれ考える、これも1つの「欲望」であると、セネカは言います。

オナ禁は、自らの欲望に打ち克とうとする取り組みです。しかし、性欲に代わって、何か別の欲望が僕の心を占めていたのかもしれません。

それに名前を付けるなら、何と呼べばいいのでしょう。

 

休憩

思っていた以上に、得るところの多い読書経験となっています。

当初の予定では「禁欲主義哲学に触れてみよう!分量も少ないし、この本でいいか!」くらいの軽い気持ちだったのですが、半分まで読み進めた今となっては、人生を根本的に問い直す機会になりそうな気配さえあります。

ここから、セネカはどのように話を展開していくのでしょう。

そして、僕の胸に渦巻く疑問や戸惑いの行方はどうなるのか。

焦らず、少しずつ進めていきます。

 

続きはこちら

セネカを読む③/自己啓発について思うこと - 新婚野郎のカムバック禁欲録

 

〜禁欲メモ〜

日数:17日・0日(書店でヌード美術を立ち読みしてエロ禁リセット)

前日の食事

3時:豆ごはん(白米:玄米=1:1、大豆、小豆、黒豆、金時豆)、納豆、生卵、めんべい、コーヒー@自宅
7時:オニオンスープ@自販機
10時:サンドイッチ@電気屋前のベンチ
15時:かけそば@そば屋
17時:豆ごはん、あおさの味噌汁、焼き鮭、エビチリ、わさび菜の生野菜サラダ@自宅
23時:養命酒@自宅
所感:まだ口内炎が痛む。