新婚野郎のカムバック禁欲録

新婚のアラサー男が、かつて取り組んでいたオナ禁に『再挑戦』しながら、収入アップに取り組んでいくブログです。

セネカを読む③/自己啓発について思うこと

(約4,000字)

 

今回は、『生の短さについて』の第10章から第13章までを読んでいきます。

前回までの記事はこちら

最初:古代ローマの禁欲主義・セネカ - 新婚野郎のカムバック禁欲録

2番目:セネカの続き - 新婚野郎のカムバック禁欲録

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

 

購読に入る前に

この本を読んでいて、勇気づけられたことがあるんです。

古代ローマ期、つまり、約2,000年前の人たちも、僕たちと同じように自己改善に取り組んでいたということです。

自己啓発本やビジネス書を読むことに対して、「意味がない」とか、「一時的な自己陶酔だ」などと批判したり、「意識高い(笑)」と揶揄したりする人がいます。

そんな人の目を気にして、僕は、書店で自己啓発本やビジネス書のコーナーに赴く際、何となく、こそこそするようになっていました。

しかし、今読んでいる『生の短さについて』の内容は「自己啓発」そのものですし、

あるいは、古代ギリシアアリストテレスが書いた『弁論術』は、現代風に言えば「スピーチ・プレゼンの技術」ですから、もろに「ビジネス書」でしょう。

弁論術 (岩波文庫)

弁論術 (岩波文庫)

 

(未読ですがいつか読みたい!)

 

「意識高い」という揶揄を恐れることはない。自己啓発というのは、古代から人間が取り組んできた、2,000年以上もの伝統を持つ営為なのですから。

 

というわけで、今回の購読に入ります。

 

第10章「何かに忙殺される人間は、過去を振り返ることができない」

この章の要点は、見出しのとおり「忙殺されている人間は、過去を振り返ることができない」ということのようです。

しかし、ここはいまいち前後のつながりがわかりませんでした。

「過去を振り返ることができない」とわざわざ言うからには、前提として、セネカは過去を「振り返るべき素晴らしいもの」として捉えていることになります。

 

前回までの購読で、僕はこう思っていました。

セネカは、「今この時」に集中する「マインドフルネス」の大切さを説いているのだろう……)

だからこそ、「未来についてあれこれ思い悩むな」と言っているのだなぁ、と。

しかし、どうやら違うらしい。

と言うのは、もし「マインドフルネス」を勧めるのであれば、過去の大切さよりも、むしろ「今この時」にフォーカスする論調になるはずだからです。

一方で、セネカが重視しているのは明らかに「過去」です。

セネカにとっての「過去」とは、具体的には何のことなのでしょうか?

今の時点では「過去が素晴らしい」とされる根拠がまだ書かれていないので(もしくは読み違いをしているか)、いまいち腑に落ちません。

抜粋する箇所も迷いましたが、ひとまず書いておきます。

過去は掻き乱すことも、奪うこともできない。それは永遠で不安のない所有物なのである。(中略)過去の日々は、どの日でも、命じれば眼前に到来し、思うがままに、覗き見ることも、とどめることも可能である。だが、何かに忙殺される人間には、その暇はない。(中略)したがって、彼らの生は深淵の闇の中に消えていく。(前掲書、34〜35ページ)

 

第11章「自分のために生きればためらわず死ねる」

ここまでの内容を一旦まとめた上で、セネカは重要な指摘をします。

時間を浪費してきた人々は、死の間際になって「本当に生きること」を渇望する。これに対し、本当に自分のために生きてきた者にとっての人生とは、

どれほど短かろうとも、十分すぎるほど十分なのであり、それゆえにこそ、最期の日を迎えると、賢者らしく、しっかりした足取りで、ためらうことなく死出の旅路につくのである。(同前、38ページ)

ためらうことなく死ぬ。この部分は、深く感じ入るものがありました。

僕の人生の目標は、死ぬときに「これでよかった」と思うことです。その目標から逆算して考えたとき、今の自分は、たとえば5分後に死ぬとして、「これでよかった」と思えることをできているでしょうか……?

 

第12章「閑暇を楽しんでいるように見えても、実際は忙しくしている人がいる」

セネカは、「閑暇を楽しめない人」の例を、ここでさらに挙げていきます。

この章で特に指摘されているのが、「一見暇そうに見えるが、実はそうでもない」というパターンです。

その閑暇さえ何かに忙殺される者たちもいる。別荘にいるときも、あるいは寝台に横たわっているときも、一人きりでいて、何もかもから離れているはずなのに、己が己の煩いの種となる者たちである。(同前、39ページ)

何年か前に読んだ『暇と退屈の倫理学』という本が頭をよぎります。

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

多くの人は、せっかく暇な時間を得たとしても、何をしてもなんとなく退屈を感じる。

すると、少しばかり刺激的なだけのつまらない娯楽に興じて、時間を無為に過ごしまう。どうすればいいのか……。

そんなテーマを扱った本でした。

そのような者たちの生は、閑暇の生と呼ぶべきではなく、「不精な多忙」と呼ぶべきなのだ。(中略)このような者たちが楽しんでいるのは、閑暇ではなく、「怠惰な忙事」なのである。(同前、39〜40ページ)

セネカの記述が『暇と退屈の倫理学』の内容とオーバーラップします。

『暇と〜』は手放してしまったのですが、また読みたくなりました。

 

「怠惰な忙事」に興じる人々に対するセネカの批判は、まだ続きます。

彼らはそうしたことで優雅だとか垢抜けしているといった評判を得ようとするのであるが、あまりに度が過ぎているために、身についた悪癖があらゆる私的な生活にまでついてまわり、飲むにしろ、食べるにしろ、人に見せびらかさずにはいられないのである。(同前、41ページ)

この指摘など、まるで、フェイスブックやインスタグラムのようなSNSで私生活を誇示する現代人について述べているかのようです。

楽しそうな日常生活をアピールするため、せっせと写真を撮ってはSNSにアップロードする彼らの姿は、セネカの言う「怠惰な忙事」であるように映ります。

 

第13章「本当に生きることとは、迷いや間違いを正し、人格を形成すること」

次にセネカは、「怠惰な忙事」の一例として、「役に立たない文学研究」を挙げて批判します。

ここで批判される「役に立たない文学研究」とは、「どちらの作品が先に書かれたか?」などといった、作品の本質にはあまり関わらない部分を詳しく調べること。

このような研究を、セネカは、

秘密として人に教えなければ教えなかったで心が満足せず、公にすればしたで博学と思われるよりはむしろ鼻持ちならない人間と思われるような類いの些事である。(同前、44ページ)

と切り捨てます。

僕は、こうした細かな研究を無駄だとは思いません。一見すると意味のなさそうな「些事」を積み重ねた先に、大きな真実が見えることもある、と考えているからです。

しかし、セネカは、いわゆる「トリビア」のような研究には不満を持っているようです。その理由が、次に語られています。

実際、彼らの語っていることが誠心誠意の話だと認めるにしても、また、彼らが自分の話の信憑性を保証しているにしても、だからといって、その類いの知識が、誰の迷妄を正し、誰の過誤を減らすというのであろう。(同前、47ページ)

こうも続けます。

誰の欲望を抑えるというのであろう。誰をより勇敢な人間にし、誰をより正しい人間にし、誰をより自由な人間にするというのであろう。(同前、47ページ)

些事にこだわる「文学研究」に取り組んだところで、人の迷妄を正すこともなく、間違いを減らすこともない。

また、それは「節制」や「勇気」のような人格の形成に役立つものでもない。

だから、セネカは批判しているようです。

この部分を逆に考えるならば、セネカにとっては、

「迷妄を正し、過誤を減らし、そして、人格形成のために時間を使うこと」

こそが、本当の閑暇の使い方、つまり、

「本当に生きているということ」

になるのでしょう。

そのような時間の使い方とは、一体どのようなものなのか?

話は大詰めを迎えていきます。

 

続きはこちら

セネカの結論 - 新婚野郎のカムバック禁欲録

 

〜禁欲メモ〜

日数:20日・2日

前日の食事

9時:コーヒー@自宅
12時:ご飯、しらす、昆布、ワンタンスープ、サラダ(ベビーリーフ、ミニトマト、きゅうり)@自宅
16時:メロンパン@パン屋
19時:豆ごはん、あおさの味噌汁、金目鯛の煮付け、ホタテの練り物、きゅうりの浅漬け、サラダ@自宅
所感:今日の晩御飯は豪勢でした。